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--------------------------------------- 野茂英雄選手、がんばれ!−野茂、メジャー復帰へベネズエラで再起− | 時事コラム「野次馬パピルス」

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野茂英雄選手、がんばれ!−野茂、メジャー復帰へベネズエラで再起−
●日本のプロ野球選手に大リーガーへの道を開いたパイオニア、野茂英雄投手(39歳)。

●彼は今、肘の故障を克服して大リーグへの復帰を果たすべく、リハビリとトレーニングを重ねながら、ちゃくちゃくと「次」のための準備を進めています。

●彼は待遇への不満を言うこともなく、成績が下がってマイナーへ落ちても、そこでできるベストの対策を淡々とおこなって、次のチャンスを目指します。

●彼は「落ちぶれる」ことをまったく恐れていません。周囲の評価に対しても、常に超然としています。さすがは世界に冠たるパイオニアとして一世を風靡した男です。根性が違います。

●スターダムにのし上がっても、まったく驕ることも、うぬぼれることもなかった彼は、今も変わらず常に平常心で「自分の道」を一直線に進み続けています。

●彼はたいした男です。「ナイスガイ」とは彼のようなヤツのことを言うのでしょう。

●閑話休題。昔話をひとつ。
沢木耕太郎さんが「敗れざる者」という著書で往年の大毎オリオンズ(ロッテの前身)の名選手、榎本喜八一塁手を取り上げていました。天才的な打撃技術を持つといわれ、首位打者を二度も取った人ですが、晩年、ダッグアウトで座禅を組んだり、使われ方に不満があると暴れたりした奇行でも知られています。

●この榎本選手が、引退後も、球界からのお声がかりを期待して、もくもくとハードなトレーニングを続け、「精神のバランスを崩している」と囁かれました。

●現在なら、確固たる技術と自分の理論を持つ榎本選手のようなタイプは、大リーグに渡ればよかったかもしれません。逆に言えば、野茂選手が日本の球界に留まっていれば、榎本選手の二の舞にならなかったとも言い切れません。

●もちろん、実力があってもアメリカの球界になじめなかった選手もいますが、日本の実力派のプロ野球選手にとって進路の選択肢が広がったことは、いくら賞賛してもし過ぎることはないでしょう。野茂投手は日本の野球人にとては恩人というべきです。

●ところで、日本のプロ球界では、30歳代の後半になると、活躍していても「そろそろ引退してコーチや監督に---」という噂が立ちます。一方、大リーグでは40歳を過ぎても中心選手として活躍している選手が幾人もいます。

●野茂選手の次の目標は、この、年齢への日本人の思い込みの打破です。ぜひがんばって「40歳代の大リーグの日本人エース」になってほしいと思います。(以上)


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<2ちゃんねる「速報headline」より>
「【MLB】野茂、メジャー復帰へベネズエラで再起 」
 ソース:nikkansports.com
 http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/p-bb-tp2-20071006-266213.html
1 :丁稚ですがφ ★:2007/10/06(土) 10:24:57 ID:???0
トルネードが復活する。大リーグ復帰を目指し、右ひじ手術後のリハビリを続けていた野茂英雄投手(39)が10月中旬に始まる中南米ウインターリーグに参加することが5日、分かった。
野茂は06年6月に右ひじの遊離軟骨除去の手術をして以来、1年以上リハビリを続けて、現在は試合に投げられる状態まで回復した。ベネズエラリーグに参加するとみられる。
試合を通してアピールし、来春の大リーグキャンプへの招待を狙う。

1年以上のリハビリとトレーニングを経て、ようやく野茂がマウンドに帰ってくる。メジャー復帰を目指し、10月中旬すぎから始まる中南米のウインターリーグへの参加を決めた。現在は、右ひじの状態も良好でトルネードからの速球もフォークボールも実戦レベルになった。

「ファンに直接伝えたい」との野茂の意向もあり、6日に自身のホームページで詳細を発表する。
野茂はドミニカ共和国か、ベネズエラでのリーグ参加を中心に検討してきたが、ベネズエラが有力。同リーグにはかつてマック鈴木投手(32)も所属し、レベルも高い。

ウインターリーグには、メジャーリーグのシーズンを終えた中南米系の一流選手らも続々と参加してくる。はい上がろうとする次代の若手スターらも加わり、年明けには勝ち抜いたチームによるカリビアンシリーズも行われる。激しい競争の中で、野茂の描くシナリオはこうだ。試合勘を取り戻し、結果を出して大リーグ各球団にアピールし来春のキャンプへの招待を得る。さらにキャンプで生き残りメジャー復帰へ。

野茂は現在、米ロサンゼルスでトレーニングを続けている。06年ホワイトソックス傘下の3Aシャーロットから戦力外となった直後の6月に、遊離軟骨を3つ除去する右ひじの
クリーニング手術を受けた。「投手を長く続けていれば、こういう状態になることはしょうがないことです」と話していた。

2:丁稚ですがφ ★:2007/10/06(土) 10:25:06 ID:???0
>>1からの続き

リハビリでの右ひじの回復は、なかなか進まなかった。「きょうは調子が良くて投げることができても、また少し調子が悪くなったりと一進一退の様子」(関係者)だった。野茂は数年前から「40歳以上になっても投げ続けたい」としてトレーニング方法も変えており、今回はサポートするスタッフも含め、復帰時期をいつまでと決めずに体を根本から鍛え直した。
春先は、フロリダ州タンパにできた最新設備のトレーニング施設を使い、その後はほとんど温暖なロサンゼルスでトレーニングを続けてきた。ひじ以外は、肩も腰も問題はなく、その右ひじも回復した。

夏には39歳になった。率直にいえば1年以上のブランクを経たベテラン投手がメジャーまで復活する道は厳しい。だがこれも野茂らしい人生。「夢をあきらめるな」と言い続けるのは、ほかならぬ野茂自身だ。日本人メジャーリーガーの活躍の道を開いたパイオニアが、もう1度、夢への挑戦を始めた。
(了)
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<ウィキペデア>
榎本喜八
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - )は、東京都中野区上鷺宮出身の元プロ野球選手。左投左打。ポジションは一塁手。背番号は3番。

[編集] 来歴・人物
戦時下の1943年3月、姉に連れられ職業野球を後楽園球場に観戦に行った事が、野球を始めたきっかけ。球場の美しさと巨人の1番センター・呉昌征、3番レフト・青田昇、大和軍の2番セカンドで監督兼選手・苅田久徳に強い印象を受けた。早実高から1955年に毎日オリオンズに入団。開幕戦で5番を打つなど1年目からレギュラーとして活躍、新人王。早実高の先輩でチームメイトの荒川博(後のヤクルト監督)と共に合気道にヒントを得た打法を研究。1960年と1966年に首位打者。バットの芯で正確に球を捕らえ、事も無げにヒットを打つ様から「安打製造機」と呼ばれた(このように呼ばれた最初の選手である)。

才能・感性に裏打ちされた打撃理論で、いかなる投手のボールであってもストライクゾーンに来れば反応したと言われる。1968年7月21日の対近鉄戦で31歳7ヶ月という日本球界最年少記録で2000本安打を達成。1972年、西鉄にトレード移籍、同年引退。現在は中野区でアパート経営などをしている。

現役晩年はベンチで座禅を組むなど、奇言・奇行が多かったといわれ(人間は集中が高まると、時として奇行としか思えないような行動を起こすこともある、と榎本自身も認めている)、そのためか引退後、野球関係の仕事はしていない。名球会が創設された当初は会員として名前が挙がっていたが、一度も参加していないため脱会扱いとされている。

沢木耕太郎によるノンフィクション作品『さらば 宝石』の主人公となったが、作品の中ではEと表現されている(最後の一文で実名が明かされる)。

[編集] エピソード
入団時、監督だった別当薫を「高校を出たばかりの打者にして、既に何も手を加える必要のないバッティングフォームを持っている」と驚かせた。
巨人の王貞治が伸び悩んでいた1962年、川上哲治監督は荒川博に『榎本を育てたように王を育ててくれ』と言った。荒川自身も『バッターとしての完成度は王より榎本の方が上』と言っている。また川上は“打撃の神様”“長嶋を超える唯一の天才”と評している。
荒川らとともに合気道を習得し、打撃が開眼した。そのせいかトレーニングのことを「稽古」、バッティングフォームのことを「形」と言っていた。
試合前に座禅を組むことがあったという。また、自宅の庭に専用の打撃練習場を造ったことでも有名。
4打数4安打でも、自分が納得できる完璧な打球でなければ、どうして打てないんだろうと考え込んでいた。また4打数ノーヒットでも納得がいけば“4の4だ”と喜んだという。
選球眼が抜群で、新人から2年連続でリーグ最多四球の珍しい記録を持つ。デビュー戦の4打席目で早くも敬遠された。また、バットを構えたまま30分間一度もスイングをせず「いい練習ができた」と言った。榎本によれば「バットを振らなくても練習はできるんです」とのこと。
稲尾和久がフォークボールを投じた唯一の打者である。稲尾和久は榎本を打ち取るためだけにフォークボールをマスター、稲尾も「自分が対戦した中で榎本さんは最高にして最強のバッター」と公言している。
1963年7月7日の阪急戦で米田哲也と対戦した際、自分の身体の動きが寸分の狂いもなく分かり、投手とのタイミングが最初から無くなってしまったという。8月1日の東映戦で足を捻挫し以降の7試合を欠場するまでこの状態が続き、アウトになった打球も火の出るような完璧な当たりだった。この時の様子を『神の域』に到達したと語っている。
1968年7月21日の対近鉄ダブルヘッダーの第一試合で史上最年少記録で通算2000本安打を達成したが、その第二試合で近鉄の安井智規との間で起こった乱闘のドサクサに荒川俊三にバットで殴られ意識を失うという災難に見舞われている。
1971年限りで毎日時代から17年間在籍していたロッテを退団、トレードで西鉄に移籍となった理由は奇行がひどくなったためである。榎本は1965年頃から自分でもコントロールできないほど感情が爆発するという精神的発作に見舞われ、チーム名がロッテとなった1969年以降は代打を送られると自宅へ帰ればコーラの瓶などをバットで叩き割る、ベンチ要員にされると球場のドアの窓ガラスなどをバットで叩き割るという常軌を逸した行動を取るようになっていた。そしてこの年の8月7日の対西鉄戦で7月24日から就任した大沢啓二監督(のちに日本ハム監督)の起用法に不満をぶつけ医務室のドアを大沢監督がいるにもかかわらずにバットで叩き割ってしまった。これが元で二軍落ちし、さらに自宅で猟銃を持って立てこもるという騒ぎを起こしたことがばれついにトレードされてしまったのである。
上記の奇行悪化は1959年シーズンオフ以降自身の理解者が相次いでチームを去ってしまった事と、番記者の若返りで自分の野球理論を理解するものがいなくなっため結局孤立した事が遠因だったという説がある。
引退後、コーチに就任するための体作りとして自宅と東京球場の間、約18キロをランニングしていた。ところが現役復帰を目指しているという噂が立ち(通算打率3割復帰が目標という憶測もあった)、結局コーチ就任の声は掛からなかった。ちなみに、既に還暦を越えた今でも時々やっているそうである。
背番号3番を18シーズンにわたって使用、永久欠番である長嶋茂雄(監督在籍時を除く)、衣笠祥雄を超えるパリーグ最長記録である(プロ野球記録は立浪和義の20年)。オリオンズの本拠地「東京スタジアム」のあった下町の子供にとって、背番号3の代名詞は、長嶋茂雄のものではなく、榎本喜八のものであった。また彼は東京スタジアムで最も多く本塁打を打った選手でもある。
「打撃の天才」と言われている前田智徳について、近年のインタビューで「話を聞く限り、彼には私と共通するものがあると思います」とコメント。実際、前田はアキレス腱の怪我さえなければ、2000本安打を榎本に匹敵、あるいはそれ以上に若い年齢で達成する可能性も十分にあったほどの打撃の実力を持つが、打撃へのこだわりなど奇人めいたものを持つところまで共通している。
祖父は新八、父は八雄、弟は省八、先祖は八十八、八佐衛門など、榎本家は男の子には、全て八の字を付けた。但し喜八は自分の二人の息子には、八の字を付けなかった。

[編集] タイトル・表彰・記録
新人王(1955年)
首位打者 2回(1960年、1966年)
最高出塁率 1回(1966年)
最多安打 4回(1960年〜1962年、1966年)
ベストナイン 9回(一塁手 1956年、1959年〜1964年、1966年、1968年)
31歳7ヶ月で通算2000本安打達成(1968年7月21日) ※史上最年少記録。
通算409二塁打(歴代7位)
23試合連続安打(1962年5月2日〜6月3日)
シーズン173打席連続無三振(1964年6月30日〜8月25日)
シーズン1585刺殺(1956年 1665守備機会) ※一塁手としての日本記録。
シーズン122補殺(1965年) ※一塁手としてのパ・リーグ記録。
シーズン守備率.9992(1968年) ※一塁手としての日本記録。
シーズン1128守備機会連続無失策(1968年4月6日〜9月3日) ※一塁手としての日本記録。
1516守備機会連続無失策(1967年8月13日〜1968年9月3日)
オールスター出場 12回(1955年〜1964年、1966年、1968年)
オールスターMVP 1回(1966年第2戦)

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